岡山地方裁判所倉敷支部 平成5年(ワ)386号 判決 2000年5月11日
原告
甲野太郎
右法定代理人親権者父
甲野一郎
右法定代理人親権者母
甲野花子
原告
甲野一郎
同
甲野花子
右原告ら訴訟代理人弁護士
櫻井幸一
同
石川敬之
同
松井健二
被告
財団法人倉敷中央病院
右代表者理事
大原謙一郎
右被告訴訟代理人弁護士
森脇正
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
一 被告は、原告甲野太郎に対し金一億三〇四九万円及びうち金一億二一四九万円に対する平成二年三月二〇日から、うち金九〇〇万円に対する平成五年一二月二日から、それぞれ支払済みまで年五パーセントの割合による金員を支払え。
二 被告は、原告甲野一郎及び原告甲野花子に対し、各金五五〇万円及びうち金五〇〇万円に対する平成二年三月二〇日から、うち金五〇万円に対する平成五年一二月二日から、それぞれ支払済みまで年五パーセントの割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
本件は、原告甲野花子が、被告の開設・経営する倉敷中央病院において原告甲野太郎を出産したところ、胎児仮死で速やかに急速遂娩が必要であるにも拘わらず、同病院の担当医師が吸引分娩等の急速遂娩を速やかに行わず、胎児娩出を遅滞させたため、原告甲野太郎が仮死状態のまま出生し、低酸素脳症等により脳性麻痺の後遺症を生じたとして、原告甲野太郎及びその父母である原告甲野一郎、同甲野花子が、被告に対し、債務不履行または不法行為(民法七一五条)に基づき、慰謝料、後遺症による逸失利益等の損害賠償を請求する事案である。
一 争いのない事実等(証拠により認定したものは関係証拠を記載する。)
1 当事者
(一) 原告甲野太郎(以下「太郎」という。)は、原告甲野一郎(以下「一郎」という。)、原告甲野花子(以下「花子」という。)の子である。
(二) 被告は、肩書地において、医療施設「倉敷中央病院」を開設し、経営している財団法人である。
(三) 太郎は、平成二年三月一九日、倉敷中央病院で出生した。
2 花子の入院までの経過
(一) 花子は、昭和六一年九月一一日、倉敷中央病院で第一子(名前は「甲野春子」)を出産した際、分娩中に児心音が低下する異常が発生し胎児仮死となって吸引分娩となり、出生後NICU(新生児集中治療室)に収容された。
(二) 花子は、平成元年八月一二日、第二子妊娠のため、倉敷中央病院にて産婦人科医師の治療を受けた。
(三) その後、花子は、倉敷中央病院での外来診察の際や夫婦学級に出席した際に、産婦人科医師や助産婦に、今回も第一子の時と同様に吸引分娩の可能性があるかどうかを尋ねたが、やってみなければ分からないとの回答であった。
(四) 花子は、平成二年三月一九日午前三時三〇分頃陣痛が始まり、倉敷中央病院に午前四時五〇分頃入院した。
3 入院後の経過(証人渡辺芳美、証人中堀隆)
(一) 花子は、右一九日午前一一時五〇分頃破水したため、同日午後〇時一〇分頃分娩室に移された。
(二) 花子が分娩室に入った時点で、児心音が極端に低下していたため、担当助産婦は担当の中堀医師に分娩室に来るように手配し、中堀医師の指示により、酸素投与しながら、TZブドウ糖(低酸素状態改善)、メイロン(PH補正)を投与した。
(三) 午後〇時一五分頃中堀医師が分娩室に入ったが、花子は児を娩出せず、中堀医師は子宮底圧出(通称「クリステレル圧出法」)を試みたが、うまく行かなかった。中堀医師はその後三回子宮底圧出を試み、点滴中にオキシトミン(陣痛促進剤)を混入して陣痛促進を試みた。
(四) 午後〇時二〇分NICUの医師(四名)が呼ばれ、分娩室で待機した。
(五) 中堀医師の指示により、産婦人科の片岡医師が呼ばれ、午後〇時三〇分頃片岡医師が分娩室に入った。
(六) 太郎は、助産婦による子宮底圧出及び片岡医師による吸引分娩で、午後〇時三三分に出生したが、重症の仮死であったため直ちにNICUの医師により蘇生術がほどこされてNICUへ転送された。
4 太郎の後遺症
(一) 太郎は、倉敷中央病院のNICUに転送後、保育器に収容されたが、初期には自発呼吸が無く、けいれんがあった。
(二) 太郎は、低酸素脳症と診断され、高圧酸素療法やリハビリ(体の外部から脳を刺激する)を受けた。
(三) 太郎は、平成四年六月岡山県より身体障害者手帳(第一種二級)の交付を受けた。
二 原告らの主張
1 被告の責任
(一) 医師の過失、注意義務違反
(1) 速やかに吸引分娩を行う義務を怠り、胎児娩出を遅滞させた過失
中堀医師が分娩室に入室した午後〇時一〇分頃の時点で、クリステレル圧出法を併用して吸引分娩により児を娩出することは可能だったのであり、中堀医師としては直ちに吸引分娩を実施すべきであったにも拘わらず、吸引分娩に着手することなく漫然これを放置し、いたずらに子宮底の圧迫を反復したために、胎児の低酸素状態がより悪化し、重度の仮死で生まれるに至ったのである。
(2) 急速遂娩の方法としてクリステレル圧出法のみによる急速遂娩を選択し、児の状態を悪化させた過失
中堀医師は、吸引分娩の補助的手段としてクリステレル圧出法を選択したものではなく、クリステレル圧出法自体により胎児を娩出させる方法を選択し、前後四回にわたり子宮底圧迫(クリステレル圧出法)を反復した。しかし、本件では、吸引分娩と併用せずにクリステレル圧出法だけで児を娩出することは、もともと期待できなかったのであり、中堀医師の選択は間違っていたというべきである。
中堀医師が手技の選択を誤り、性質上胎児への危険があるクリステレル圧出法を繰り返したことにより、胎児の低酸素状態がより悪化し、その結果、重度の仮死で生まれるに至ったものである。
(3) 分娩当日の午前六時から午後〇時一〇分までの間に分娩監視装置による児心音の監視を怠った過失
分娩当日の午前六時から午後〇時一〇分までの間に、太郎に胎児仮死が発生していたか、あるいは発生を疑わせる一過性徐脈または基線細変動の消失が出現していた可能性があるところ、第一に、胎児にとって分娩はもっともストレスの加わる時であり、分娩時の胎児心音モニタリングは、胎児仮死の早期発見、早期診断に不可欠であるとされていること、第二に被告は、倉敷市はもとより岡山県下でも一、二の規模の基幹病院であり、したがって、被告にはこれに応える責任と義務があること、特に本件では前回分娩が胎児仮死による吸引分娩であったこと、その原因が判明していなかったこと、妊婦がこれらを原因として今回の分娩に不安を抱いており、その旨妊婦検診の際訴えていたこと、分娩第一期に出血の報告が助産婦からなされていること、被告において現に分娩監視装置による胎児心拍モニタリングを容易になし得る状況にあったことなどの事情からして、ドップラー聴診法の五秒間三回連続法でなく、分娩監視装置による胎児心拍数の監視を行うべきであったのに、被告にはこれを怠った過失または注意義務違反があった。
(二) 被告の責任の根拠
(1) 不法行為
① 中堀医師は、医師として、診療上高度の注意義務を負っている。
② 被告は、医療施設の開設者、経営者として、適切な医療態勢を整えるべき注意義務を負っている。
③ しかるに、中堀医師及び被告は、前述した過失により、太郎に重度の後遺症を生ぜしめた。
④ よって、被告は、民法七〇九条及び七一五条により不法行為責任を負う。
(2) 債務不履行責任
① 被告は、平成二年三月一九日、花子が倉敷中央病院に入院するに際し、花子及び一郎との間で、花子が分娩するについては母体及び胎児の安全を確保するために必要な診療を給付することを内容とした診療契約を締結した。
② しかるに、被告の履行補助者たる中堀医師及び被告は、前述(一)に記載したとおり、不完全な履行をなし、太郎に後遺障害を生ぜしめた。
③ よって、被告は、診療契約の債務不履行により、原告らが被った損害を賠償すべき責任がある。
2 因果関係
(一) 脳性麻痺の原因
被告は、現在脳性麻痺の一般的原因として大きく分けて次の五つが挙げられるが、本件ではその原因は不明であると主張する。
(1) 先天的な発達上の欠損によるもの(遺伝子、染色体異常など)
(2) 子宮内感染(主にウィルス感染)
(3) 代謝性疾患
(4) 催奇形性物質、毒素、放射線など
(5) 低酸素状態(妊娠中、分娩時、新生児期)
しかし、右原因のうち、本件では(2)、(3)の疾患は認められず、また(4)の催奇形性物質などの存在も認められていない。(1)についても、消極的にではあるが、欠損があったという証拠はないと診断されている。
他方、妊娠中及び新生児期には低酸素状態が存在した証拠はないが、分娩時にはまさしく低酸素状態の存在が確認されている。
このことからすれば、消去法によってではあるが、分娩時の低酸素状態が本件後遺症の原因である高度の蓋然性が存するというべきである。すなわち、訴訟上の因果関係は科学的な立証ではなく、高度の蓋然性をもって足りるのである。
(二) 分娩中の低酸素脳症
被告は、米国産婦人科学会の見解を基にして、分娩中の低酸素脳症が発生したと考えるためには、少なくとも以下の四所見を必要であるのに、本症例では、(1)は満たすものの、(2)ないし(4)は満たしておらず、四所見を満たしていないから、分娩時の脳への著明な低酸素のみが後遺症の発生原因とは考えにくいと主張する。
(1) 臍動脈血中の高度な代謝性酸血症(アシドーシス)がPH7.00以下。
(2) アプガースコア〇〜三点が五分以上継続すること。
(3) 新生児期の神経学的所見―昏睡、けいれん、筋緊張の低下。
(4) いくつかの臓器に多発する機能障害
心血管系、消化器系、造血系、肺、腎など
しかしながら、原告らは右米国での見解を直ちに日本の例に当てはめることは適当ではなく、さらに、本件では少なくとも分娩遅延などが本件の重度の後遺症という結果に影響を及ぼしている、すなわち原因となっていると考える。
鑑定結果も、米国産婦人科学会の見解を前提として判断しつつ、右四つの条件のうち、(1)と(3)が認められ、さらにCPK―BBの数値が上昇していることから、本件結果としての脳障害と分娩時の低酸素症との因果関係を部分的にせよ肯定している上に、鑑定人も分娩時の低酸素症を被告が継続させ悪化させたことを認める証言をしている。
(三) よって、被告の過失と本件結果としての後遺症とは因果関係がある。
3 損害
(一) 太郎の損害
太郎は、脳性麻痺、精神遅滞、てんかんと診断される後遺障害を残し、四肢・体幹に著しい失調が認められ、平成六年六月再判定の結果岡山県から身体障害者手帳(第二級第一種)の交付を受け、平成一〇年七月一日倉敷市から重度心身障害者医療費受給資格者証の交付を受けている。
太郎は、現在、食事、移動などの日常生活全般にわたり常時介助が必要な状態で、労災保険関係の後遺障害認定基準に当てはめると、第一級の三もしくは第二級の二の二に該当する後遺障害であり、労働能力の喪失率は一〇〇パーセントである。
(1) 逸失利益 四四九六万円
① 就労可能年数
太郎は、平成二年三月一九日生まれの男児であり、家庭環境からして四年制大学に進学し卒業後就職すると推認されるので、満二二歳から満六七歳までの四五年間の就労が可能である。
② 収入
太郎は、前記のとおり四年制大学に進学し卒業就職すると推認されるところ、平成九年の賃金センサス第一巻第一表の産業計・企業規模計・男子労働者の大学卒二二歳〜二四歳の平均賃金による年収額(大卒初任給)は、三二二万八八〇〇円である。
③ 労働能力喪失率
太郎は、前記のとおり本件障害を受けたことにより、労働能力の一〇〇パーセントを喪失した。
④ 新ホフマン係数
太郎が本件障害を受けたのは〇歳の時であり、これに適用される新ホフマン係数は14.4424である。
六七年の新ホフマン係数
29.0224
二二年の新ホフマン係数
14.5800
29.0224―14.5800=14.4424
⑤ 以上により、太郎の逸失利益を計算すると、次式のとおり四六六三万一六一二円となるが、そのうち四四九六万円を損害として計上する。
322万8800円×14.4424=4663万1621円
(2) 生涯の介護料 五六五三万円
太郎は、本件障害のため一生介護を要する状態である。従って、一日の介護料を五〇〇〇円とし、平均余命を76.11年(平成三年簡易生命表による)として、右七六年に適用される新ホフマン係数30.9804により中間利息を控除すると、五六五三万九二三〇円となるが、そのうち五六五三万円を損害として計上する。
5000円×365日×30.9804=5653万9230円
(3) 慰謝料 二〇〇〇万円
太郎の本件障害による精神的苦痛を慰謝するための損害額は二〇〇〇万円を下らない。
(二) 一郎及び花子の損害
各 五〇〇万円
一郎及び花子は、それぞれ太郎の父、母として、本件障害を有する愛児太郎を養育していかなければならず、一生その面倒を見ていくについての苦痛は筆舌に尽くしがたい。その精神的苦痛を慰謝するための相当額はそれぞれ五〇〇万円を下らない。
(三) 弁護士費用
太郎につき 九〇〇万円
一郎及び花子につき 各 五〇万円
原告らは、被告が前記各損害を任意に賠償しないため、原告ら訴訟代理人に本件損害賠償請求訴訟の提起遂行を委任し、岡山県弁護士会報酬等基準規定による弁護士報酬を支払うことを約した。
右弁護士報酬のうち、太郎につき九〇〇万円、一郎及び花子につき各五〇万円を請求する。
(四) 損害額合計
以上により、原告らが賠償を求める損害額は、太郎につき一億三〇四九万円、一郎及び花子につき各五五〇万円である。
(五) よって、被告に対し、いずれも不法行為もしくは債務不履行による損害賠償として、
(1) 太郎につき、金一億三〇四九万円及びうち金一億二一四九万円に対する不法行為の日の翌日である平成二年三月二〇日から、うち金九〇〇万円に対する訴状送達に日の翌日である平成五年一二月二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
(2) 一郎及び花子につき、各金五五〇万円及びうち金五〇〇万円に対する不法行為の日の翌日である平成二年三月二〇日から、うち金五〇万円に対する訴状送達の日の翌日である平成五年一二月二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
三 被告の主張
1 被告の責任について
(一) 医師の過失、注意義務違反
(1) 速やかに吸引分娩を行う義務を怠り、胎児娩出を遅滞させた過失
吸引分娩は中在児頭かつ矢状縫合が斜径の場合、母児へのリスクが高く、低在児頭への下降を促した上で行うべきである。また本件の場合、母体膣壁も内側に膨隆しており、直ちに吸引分娩を行うことは不適当と考えられた。その目的の下に行ったクリステレル圧出法は妥当であり、功を奏し結果的に早期に娩出は成功しているのであり、分娩遷延したという状況にはない。仮に中在児頭での吸引分娩を行った場合、母体軟産道損傷、児頭損傷が起こった可能性、娩出時間もより遅くなった可能性が高く、現在より児の状態を悪化させていた危険性が高い。
(2) 急速遂娩の方法としてクリステレル圧出法のみによる急速遂娩を選択し、児の状態を悪化させた過失
① 原告らは、クリステレル圧出法は急速遂娩ではないと主張するが、急速遂娩の趣旨は、母体内の胎児の命を守るために速やかに娩出させるということであり、そこで、頭位分娩で分娩第二期における急速遂娩の方法には、クリステレル圧出・吸引分娩・鉗子分娩・帝王切開が含まれており、原告らの主張は理由がない。
② 本件分娩児の陣痛は弱く微弱陣痛であった点、自然破水後に速やかに子宮口が全開大した点、児頭最大周囲が入口部にあって未だ通過した状態ではないが経産婦である点などより可及的速やかに胎児を娩出させなければならない場合、吸引分娩の前処置としてクリステレル圧出によって児頭を下降させ、より安全に、また速やかに児を娩出させることは臨床的に行われており、吸引分娩の前処置としてクリステレル圧出法を行い、急速遂娩を行った点は適切である。
③ 以上より、急速遂娩の方法、手技に問題は見られない。
(3) 分娩当日の午前六時から午後〇時一〇分までの間に分娩監視装置による児心音の監視を怠った過失
① 確かに、被告は原告ら主張の時間帯に分娩監視装置による連続監視は行っていないが、それは以下の理由による。
・原告花子には、外来診察経過において何らの異常を認めず、胎児仮死発生の危険性が特に高いとは考えられなかったこと。
・入院時の分娩監視装置にて異常がなかったこと。
・ドップラー聴診法で異常がなかったこと。
・陣痛は微弱で分娩進行も暖やかであったこと。
・入院産婦全員に連続監視を行うことは物理的に不可能であること。
② 次に、原告は、前回分娩が胎児仮死による吸引分娩であったこと、その原因が判明していなかったこと、妊婦がこれらを原因として今回の分娩に不安を抱いており、その旨妊婦検診の際訴えていたこと、分娩第一期に出血の報告が助産婦からなされていること、被告病院は地域の中枢的医療機関で現に分娩監視装置が利用可能な状態であったことなどを総合して、破水前においても継続して胎児心音を監視しておくべき注意義務を設定主張している。
しかし、右第一期の出血の原因となる特定の疾患は同定できず、正常の分娩進行に伴う産徴と考えるのが妥当であり、原因不明の胎児仮死による吸引分娩既往、経膣分娩に対する患者の不安、分娩第一期の出血、被告病院が地域の中枢的医療機関で分娩監視装置が利用可能な状態であった点を考慮しても、本件発生当時に、医学的に連続的な胎児監視の必要性はなかった。
以上の点より、本件分娩において入院時から分娩監視装置の装着の必要性はなく、本件において現に実施されたドップラーによる胎児心拍数カウントは適当であり、分娩監視装置による連続的な監視と、臨床上有意な差はない。
③ 以上より、総じて被告側に胎児心拍数の監視を怠った過失はない。
(二) 被告の責任根拠
原告らの主張はいずれも争う。
2 因果関係
(一) 脳性麻痺の原因
脳性麻痺の原因は、一八六二年英国整形外科医Llittle氏が原因が出産時にあると発表したことから始まり、その後大きな根拠もなく現在に受け継がれているのが実情である。しかしながら、最近の知見はこの一九世紀のコメントに大きな疑問を投げかけている。現在脳性麻痺の一般的原因として大きく分けて次の五つが挙げられている。
(1) 先天的な発達上の欠損によるもの(遺伝子、染色体異常など)
(2) 子宮内感染(主にウィルス感染)
(3) 代謝性疾患
(4) 催奇形性物質、毒素、放射線など
(5) 低酸素状態(妊娠中、分娩時、新生児期)
その他にも多くの原因が考えられるものの、現在の医学ではその大部分が不明である。分娩時の低酸素が原因のこともあり得るが、それは全体の一〇パーセント以下に過ぎないとも言われている。
近年の分娩監視装置の普及により帝王切開分娩は増加し、新生児死亡、死産は減少したが、脳性麻痺は減少していない。むしろ、未熟児治療の進歩により未熟児を含めた脳性麻痺は増加傾向にある。
この事例からも、脳性麻痺の原因の殆どが分娩時によらないことが示されている。また脳性麻痺の多くは分娩開始前より脳障害が存在することが証明され、分娩時にはその予防は不可能であるとされている。
(二) 分娩中の低酸素脳症
米国産婦人科学会の見解では、分娩中の低酸素脳症が発生したと考えるためには、少なくとも以下の四所見を必要とするとされている。
(1) 臍動脈血中の高度な代謝性酸血症(アシドーシス)がPH7.00以下。
本症例は、PH6.78でこの条件を満たす。
(2) アプガースコア〇〜三点が五分以上継続すること。
本症例は、一分後二点、五分後四点で、この条件を満たさない。
(3) 新生児期の神経学的所見―昏睡、けいれん、筋緊張の低下。
本症例は、昏睡、筋緊張の低下は認めない。けいれんに関してもNICU入院中は明らかなけいれん発作を認めない。
(4) いくつかの臓器に多発する機能障害
心血管系、消化器系、造血系、肺、腎など
胎児に分娩中に低酸素症が発生した場合、血流循環の再配分が起こり、重要臓器(主に脳、副腎など)の血流は最後まで保たれ、右の心血管系、消化器系などの臓器は血流量が低下する。分娩中の低酸素症のみで脳障害が起こるくらいであれば他の臓器に多発性障害が起こるはずであり、特に腎障害が著明となり、尿量低下が見られるが、本症例では尿量に異常を認めず、その他の多発性障害(心血管系、消化器系、造血系、肺)を認めていない。
このように、本症例は四条件を満たしておらず、分娩時の脳への著明な低酸素のみが後遺症の発生原因とは考えにくい。
(三) 以上より、低酸素症が胎児に影響を与えた可能性はあるものの、分娩時の低酸素症が原因で、本件新生児に重篤な脳障害が残ったとは断定できない。したがって、本件分娩において、遷延性徐脈が出現した後、速やかに遂娩処置が行われており、本件において脳障害を有効に回避する他の遂娩方法は無いとの結論となる。
脳性麻痺の発生原因の解明は未だ確定せず、医療水準論上からみても明白な分娩時事故が原因でない限り、医師の注意義務の存否の基準とするには不確実であると言わざるを得ない。
3 損害について
原告らの主張はいずれも争う。
四 主要な争点
1 本件分娩に際して、中堀医師あるいは被告に、診療上の過失または債務不履行が認められるか。
2 本件分娩時における太郎の低酸素症と、太郎の脳障害との間に因果関係が認められるか。
3 損害額
第三 当裁判所の判断
一 争いのない事実等、証拠(甲一ないし一六、乙一の1ないし97、二の1ないし24、三の1ないし5、四の1ないし61、五の1ないし16、六の1ないし六の53の3、七の1ないし95、八の1ないし10、九の1ないし18、一〇の1ないし17、一四ないし三二、三三の1ないし24、三四ないし四〇、四一の1ないし4、四二ないし五三、証人渡辺芳美、証人中堀隆、証人伊藤昌春、原告花子)、鑑定の結果及び弁論の全趣旨によれば、次の事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない(後記措信しない部分を除く。)。
1 花子の入院までの経過
(一) 花子は、平成元年八月一二日、妊娠のため倉敷中央病院にて産婦人科医師の治療を受けた。
(二) 花子は定期的に倉敷中央病院で診察を受けてきたが、第一子(昭和六一年九月一一日倉敷中央病院で出生)の出産の際、分娩中に児心音が低下する異常が発生し胎児仮死となって吸引による分娩となり、出生後NICUに収容されることがあったため、今回の出産にあたっても分娩異常が発生するのではないかとの不安を抱き、今回も第一子出産の経過をよく分かっている倉敷中央病院で出産することにした。
花子は、倉敷中央病院での外来診察の際や夫婦学級に出席した際に、産婦人科医師や助産婦に、今回も吸引分娩の可能性があるかどうかを尋ねたが、やってみなければ分からないとの回答で、分娩への不安は続いていた。
(三) 倉敷中央病院の外来では、花子に対し、一般診察、超音波断層検査、妊娠後期より外来診察時にNST(ノンストレステスト。分娩監視装置により胎児心拍数をモニターし、胎児予備能を評価する方法。)を行っているが、異常を認めず、経過は良好であった。
(四) 花子は、平成二年三月一九日午前三時三〇分頃陣痛が始まり、倉敷中央病院に午前四時五〇分頃入院した。
2 入院後の経過
(一) 花子の入院時、中堀医師が診察したが、その入院時の所見は、陣痛一〇秒/九〜一〇分、子宮口一指開大、児心音はドップラー聴診法(五秒間ずつ三回測定する方法。以下「ドップラー法」という。)で一二/五秒間児頭位置のステーションはマイナス二であった。
花子は、午前五時二〇分〜六時まで、外測法による分娩監視装置(胎児の心音及び陣痛を計測し、連続曲線でグラフ用紙の上に記録する装置)を装着された。右時間内の、胎児心音は一分間に一二〇〜一六〇回の範囲内で基線細変動があり、徐脈は認められなかった(中堀医師はそれまで花子を診察したことはなく、この時が初めてであった。)。
(二) その後は、約一時間毎に助産婦において検査が行われ、午前五時五〇分には、陣痛発作一〇秒、児心音一一〜一二/五秒間、午前六時三〇分には、陣痛一〇〜一五秒/三〜四分、児心音一一〜一二/五秒間、胎児心拍良い、午前七時三〇分には、陣痛一〇〜一五秒/二〜三分、児心音一一〜一二/五秒間、ステーションマイナス二、午前八時二〇分には、陣痛一〇秒/二〜四分、頚管口二指開大、児心音一一〜一二/五秒間、ステーションはマイナス二、午前九時〇〇分には、陣痛一〇秒/二〜三分、頚管口二指開大、児心音一二〜一三秒/五秒間、ステーションはマイナス三、午前一〇時〇〇分には、陣痛二〇秒/三分、児心音一二/五秒間、午前一〇時五〇分には、陣痛二〇秒/二分、児心音一二/五秒間、胎児心拍良い、午前一一時〇〇分には、陣痛やや増強する、頚管口2.5指通ず、午前一一時一〇分には、陣痛二〇秒/二〜三分、児心音一一〜一二/五秒間、ステーションはマイナス二〜マイナス一、午前一一時三〇分には、子宮口2.5指開大、横径(児頭の方向)でステーションはマイナス一、陣痛が強くなった。
この間、午前七時三〇分と午前八時二〇分の二度にわたり、コアグラ(血の固まり様のもの)を含んだ出血があり、中堀医師に連絡した。
午前九時過ぎには、中堀医師が花子を診察した。この際助産婦が出血の報告をしたが、中堀医師は様子を見るようにと言った。
以上の経過からすれば、陣痛は微弱であり、分娩進行は緩やかであったものと認められる。
(三) 午前一一時五〇分、花子は自然破水し、自力歩行は困難と思われ、ストレッチャーで分娩室へ移動することになった。この際には、陣痛二〇秒/二〜三分、児心音一一〜一二/五秒間、斜径でステーションはプラスマイナス〇、子宮口四指開大。
(四) 午後〇時〇〇分頃、ストレッチャーで分娩室へ移動中、陣痛一〇〜一五秒/二〜三分、児心音一一〜一二/五秒間、斜径でステーションはプラスマイナス〇、子宮口全開大。
(五) 午後〇時一〇分、花子は分娩室に入室して分娩台に移動し、ドップラー法にて児心音を確認したところ、徐脈七〜八/五秒を認めた。
スパイラル電極を児頭に装着し、内測法で分娩監視装置による記録を開始したが、同じく持続性徐脈七〇〜八〇/分を認めた。
頚管口全開大、斜径でステーションはプラスマイナス〇、陣痛弱く児頭下降しない。
助産婦は、同じフロア(産婦人科病棟)で回診中の中堀医師に内線電話にて連絡をとり、同医師は、母体への酸素投与、TZ葡萄糖、メイロンの投与を指示した。
(六) 午後〇時一五分、中堀医師が分娩室に入室した。
この時、斜径でステーションはプラスマイナス〇、子宮口は全開大しているものの陣痛弱く児頭下降は認められなかった。
また、中堀医師は陣痛発作に合わせて怒責を指示した。
この間、母体への酸素投与、TZブドウ糖、メイロンの投与を継続したにも拘わらず、徐脈の改善は見られなかった。
(七) 午後〇時二〇分頃、中堀医師は、急速遂娩が必要と判断し、その方法として、陣痛が弱く児頭下降不良であったが、経産婦であり、分娩の経過が午前一一時三〇分以降早いことより、帝王切開を選ぶより、子宮底圧出(クリステレル圧法)、吸引分娩等による経膣分娩の方が早く娩出可能と判断した。中堀医師は、吸引分娩用のカップの装着を考え、カップの取り出し等吸引分娩の準備を指示したが、児頭位置がまだ高く、怒責により膣壁が内側へ膨隆し、母児への損傷の可能性が高く、カップ装着不能と判断した。中堀医師は、児頭位置を下げるため(及び急速遂娩の効果も期待して)、陣痛に合わせて子宮底圧出を試みたが、ステーションはプラスマイナス〇程度で児頭は下降しなかった(原告花子は、この際助産婦が中堀医師に「赤ちゃんが危ない。吸引をかけないと死んでしまう。」と吸引分娩に切り替えることを勧めたが、中堀医師は「ぼくは吸引器は使えない」と言って子宮底圧出を続けたと供述するが、証人渡辺芳美及び証人中堀隆はこれを否定しており、右認定事実及び原告花子の切迫した状態等に照らして、原告花子の供述はにわかに採用しがたい。)。
中堀医師は、右の状況から新生児仮死を想定して、NICUの医師派遣を依頼した。
(八) 午後〇時二五分、中堀医師は、子宮底圧出を陣痛、腹圧に合わせて継続しつつ(最初から合計四回)、同じフロアにいた産婦人科の片岡医師に院内ポケットベルで応援を依頼した。その後、陣痛が弱いため点滴ボトル内にオキシトシン二単位混入を助産婦に指示した(片岡医師を呼んだ理由について、原告らは中堀医師が吸引分娩ができないため片岡医師の応援を仰いだと主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。)。
(九) 午後〇時三〇分、陣痛二〇秒/二〜三分、児心音七〜八/五秒で、片岡医師が分娩室に入り、内診の結果、児頭位置が依然高く、子宮底圧出により一旦下降した児頭が圧出を止めると元に戻るため、子宮底圧出を再度行った後、助産婦により圧出を行いながら、片岡医師において吸引カップを児頭に装着し、吸引分娩を行った。この際、中堀医師は吸引器の操作にあたった。
(一〇) 午後〇時三三分、二八八八グラムの男児娩出する。
男児に自発呼吸はなく仮死状態で、直ちにNICUの医師らにて蘇生を行いつつ気管に挿管してNICUへ転送した。
この際、アプガースコアは、一分後二点、五分後四点、臍動脈血ガス分析値はPH6.748であり、午後〇時四六分NICU入院時の同分析値はPH6.78であった。
3 太郎の後遺症
(一) 太郎は、倉敷中央病院のNICUに転送後、保育器に収容されたが、初期には自発呼吸が無く、けいれんがあった。
(二) 太郎は、脳の酸素欠亡に起因する低酸素脳症と診断され、高圧酸素療法やリハビリ(体の外部から脳を刺激する)を受けたが、体幹の機能障害により、三歳時には起立位を保つことが困難であった。
(三) 太郎は、平成四年六月岡山県より身体障害者手帳(第一種二級)の交付を受け、平成六年六月再判定の結果岡山県から身体障害者手帳(第二級第一種)の交付を受け、平成一〇年七月一日倉敷市から重度心身障害者医療費受給資格者証の交付を受けている。
(四) 平成一〇年八月一〇日岡山大学付属病院岡医師の診察によれば、太郎(診断時八歳)の診断名は、「脳性麻痺(未分類型)、精神遅滞、てんかん(部分てんかん)」とされ、所見としては、「MRIを実施した結果、大脳発育不全とは考えにくい。運動機能についてはかなり改善を認め歩行可能となっています。運動失調性歩行ではないようです。細かい運動が最初のうちよく進んでいるような判断でしたが、これは誤りでした。目的を有しない手の動作はすばやいのですが、有用な動作が必ずしも進歩していないので大脳皮質機能障害である先行の要素が加わっている可能性があります。てんかんはST(抗てんかん剤)で少しよいということですが、GPS(けいれん発作)が稀にあり、単純性部分けいれん発作が回復未定ということでした。」とされており、また太郎は、平成一一年四月当時(実年齢九歳)の精神発達状態は五歳位とされている。
二 医師の過失、注意義務違反(争点1)について
1 速やかに吸引分娩を行う義務を怠り、胎児娩出を遅滞させた過失
原告らは、中堀医師には右につき過失、注意義務違反があったと主張するので検討する。
証拠(乙四五、証人伊藤昌晴、証人中堀隆)及び鑑定の結果によれば、吸引分娩の適応は、主として分娩第二期(子宮口全開大から胎児が娩出するまでの時間)を短縮し、経膣的に急速に児を娩出させる必要のある場合で、胎児仮死、遷延分娩等であり、吸引分娩を行うに必要な条件は、(1)子宮口が全開大していること、(2)破水していること、(3)児頭骨盤不均衡がないこと、(4)胎児が生存していること、(5)児頭が一定の大きさと硬度を有すること、(6)児頭最大周囲が骨盤入口部を通過していることが挙げられる。
前記認定事実、証拠(乙四五、証人伊藤昌晴、証人中堀隆)及び鑑定の結果によれば、中在児頭(児頭位置のステーションがプラスマイナス〇前後)で、矢状縫合が斜径、かつ妊婦に対する怒責のため母体膣壁も内側に膨隆している本件の場合、直ちに吸引分娩を行うのは、右適応に照らして、母児へのリスクが高く、子宮底圧出法により児頭の下降(及び急速遂娩の効果も期待して)を促して行うべきとし、かつ右子宮底圧出を合計四回にわたって継続した中堀医師の判断及び処置は相当であると認められる(更に、鑑定の結果によれば、クリステレル圧出法は微弱陣痛や腹圧不全時に用いられ、陣痛発作時に骨盤誘導線に沿って胎児を圧迫し、陣痛間歌時には行わないこと、腹圧微弱の場合、陣痛の発作に合わせて行えば子宮破裂、早剥、軟産道損傷、胎児損傷などを起こす危険性は少ないと考えられること、右圧出法は数回にとどめるべきで、一〇回以上にも及ぶことは不適当と考えられることなどを認めることができ、本件分娩において行われた子宮底圧迫は限度以内の回数であり、クリステレル圧出法の影響は少ないと推定されるとしている。)。
しかも、中堀医師の判断は功を奏し、少なくとも三、四〇分ないし一時間を要する帝王切開よりも、結果的に吸引分娩により三〇分以内に胎児の早期娩出に成功しており、分娩が遷延したとは認めがたく、原告らの主張は理由がない(仮に、中在児頭での吸引分娩を行った場合、母体軟産道損傷、児頭損傷が起こった可能性、娩出時間もより遅くなった可能性があり、現在より児の状態を悪化させていた危険性も認められるところである。)。
また、原告らは、中堀医師が分娩室に入室した午後〇時一五分の児頭のステーション位置と、現実に児が吸引用カップを装着された午後〇時三〇分頃の児頭のステーション位置が殆ど変わっていないことなどを理由として、中堀医師は分娩室に入室後直ちに吸引分娩を実施すべきであったと主張しているとも解されるが、右認定事実によれば、母体への酸素投与、TZブドウ糖及びメイロンの投与が継続されており、右効果を確認する必要があり、更に吸引分娩の適応上、児頭を下降させる必要があったことは前記認定のとおりであるから、分娩室入室後、午後〇時二〇分頃から吸引分娩の前提として(及び急速遂娩の効果も期待して)、クリステレル圧出法を実施した中堀医師に過失があるとは認めがたく、原告らの主張は理由がない。
2 急速遂娩の方法としてクリステレル圧出法のみによる急速遂娩を選択し、児の状態を悪化させた過失
原告らは、クリステレル圧出法は急速遂娩ではないと主張するが、証拠(証人伊藤昌春、証人中原隆)、鑑定の結果及び弁論の全趣旨によれば、急速遂娩の趣旨は、母体内の胎児の命を守るために速やかに娩出させるということであり、頭位分娩で分娩第二期における急速遂娩の方法には、クリステレル圧出・吸引分娩・鉗子分娩・帝王切開が含まれると解するのが相当であり、原告らの主張は理由がない。
前記認定事実、証拠(証人中堀隆)及び鑑定の結果によれば、本件分娩時の陣痛は弱く微弱陣痛であった点、自然破水後に速やかに子宮口が全開大した点、児頭最大周囲が入口部にあって未だ通過した状態ではないが経産婦である点などが認められ、より可及的速やかに胎児を娩出させなければならない場合、吸引分娩の前処置としてクリステレル圧出法によって児頭を下降させ、より安全に、また速やかに児を娩出させることは臨床的に行われており、吸引分娩の前処置としてクリステレル圧出法を行い、急速遂娩を行った点は適切であると認められる(更に中堀医師が吸引分娩を想定し、吸引用カップの取り出し等吸引分娩の準備を指示したことは、前記認定のとおりであって、この点に関する原告の主張は理由がない。)。
3 分娩当日の午前六時から午後〇時一〇分までの間に分娩監視装置による児心音の監視を怠った過失
原告らは、右時間帯にも分娩監視装置による監視を行うべきであったと主張し、更に前回分娩が胎児仮死による吸引分娩であったこと、その原因が判明していなかったこと、妊婦がこれらを原因として今回の分娩に不安を抱いており、その旨妊婦検診の際訴えていたこと、分娩第一期(一〇分以内の周期での規則的な子宮収縮、あるいは一時間に六回以上の周期で、自発的な疼痛を伴う子宮収縮が発来して、子宮口が全開大するまでの時期)に出血の報告が助産婦からなされていること、被告病院は地域の中枢的医療機関で現に分娩監視装置が利用可能な状態であったことなどを考慮すれば、破水前においても継続して胎児心音を監視しておくべき注意義務があったと主張するので、これについて検討する。
前記認定事実、証拠(証人伊藤昌春、証人中堀隆)及び鑑定の結果によれば、(1)原告花子は、外来診察経過において何らの異常を認めず、胎児仮死発生の危険性が特に高いとは考えられなかったこと、(2)入院時の分娩監視装置にて異常がなかったこと、その後約一時間毎のドップラー法で異常がなかったこと、(3)日本産婦人科学会では、母児のいずれかまたは両者の重大な予後が予測される妊娠をハイリスク妊娠と定義し、ハイリスク妊娠では、母体及び胎児、新生児に危険が生じる可能性が高いため、的確な対処を万全の対応が必要とされること、本件は原因不明の胎児仮死による吸引分娩の既往があるものの、これのみではハイリスク妊娠とはいえず、ローリスク妊娠と判断せざるを得ないこと、(4)分娩第一期の原因として、前置胎盤、早剥(常位胎盤早期剥離)、辺縁静脈洞破裂、頚管裂傷、子宮破裂などが挙げられるが、入院時の内診、分娩、産褥経過より前置胎盤、頚管裂傷、子宮破裂による出血とは考えにくいこと、早剥については、入院時の胎児心拍モニタリングにおいて早剥時に出現する胎児頻脈、遅発一過性徐脈、変動一過性徐脈、細変動の消失などを認めていない点、本件胎盤の重量は五七〇グラムで大きさ一七×一(センチメートル)であり、胎盤の母体付着面を観察するには十分な大きさであるが、中堀医師は異常を認めていない点、及び胎児娩出から胎盤娩出までの分娩第三期の所要時間が四分間であった点、また他に早剥が存在したことを示唆する根拠はない点などから、本件で早剥が起こっていなかったと認められること、辺縁静脈洞破裂については、花子の病誌上、胎盤、臍帯に特記すべき所見はない旨記載されていることなどから、入院時より、分娩監視装置で連続して胎児心拍数を監視しなければならないほどの、第一期の出血の原因となる特定の疾患を同定できず、正常の分娩進行に伴う、産徴と考えるのが妥当であること、(5)陣痛は微弱で分娩進行も緩やかであったこと、(6)遷延性徐脈の原因として臍帯圧迫・臍帯脱出・臍帯下垂、早剥、子宮破裂のいずれかが考えられるが、これらによって本件徐脈(分娩当時の午後〇時一〇分に確認された毎分七〇〜八〇回)が起こった可能性が少ないこと、などの事実が認められ、原因不明の胎児仮死による吸引分娩既往、経膣分娩に対する患者の不安、分娩第一期の出血、被告病院が地域の中枢的医療機関で分娩監視装置が利用可能な状態であった点を考慮しても、本件発生当時に、医学的に連続的な胎児監視の必要性は存したものと認めがたい。
以上の点より、本件分娩において入院時から分娩監視装置の装着の必要性はなく、本件において現に実施されたドップラー法による胎児心拍数カウントは適当であり、分娩監視装置による連続的な監視と、臨床上有意な差はなく、原告らの主張は理由がない。
三 因果関係(争点2)について
1 脳性麻痺の原因
現在脳性麻痺の一般的原因として大きく分けて次の五つが挙げられている。
(一) 先天的な発達上の欠損によるもの(遺伝子、染色体異常など)
(二) 子宮内感染(主にウィルス感染)
(三) 代謝性疾患
(四) 催奇形性物質、毒素、放射線など
(五) 低酸素状態(妊娠中、分娩時、新生児期)
その他にも多くの原因が考えられるものの、現在の医学ではその大部分が不明である。分娩時の低酸素が原因のこともあり得るが、それは全体の一〇パーセント以下に過ぎないともいわれている。
近年の分娩監視装置の普及により帝王切開分娩は増加し、新生児死亡、死産は減少したが、脳性麻痺は減少していない。むしろ、未熟児治療の進歩により未熟児を含めた脳性麻痺は増加傾向にある。
この事例からも、脳性麻痺の原因の殆どが分娩時によらないことが示されている。また脳性麻痺の多くは分娩開始前より脳障害が存在することが証明され、分娩時にはその予防は不可能であるとされている。
2 分娩中の低酸素脳症
(一) 米国産婦人科学会の見解では、分娩中の低酸素脳症が発生したと考えるためには、少なくとも以下の四所見を必要とするとされている。
(1) 臍動脈血中の高度な代謝性酸血症(アシドーシス)がPH7.00以下。
(2) アプガースコア〇〜三点が五分以上継続すること。
(3) 新生児期の神経学的所見―昏睡、けいれん、筋緊張の低下。
(4) いくつかの臓器に多発する機能障害
心血管系、消化器系、造血系、肺、腎など
胎児に分娩中に低酸素症が発生した場合、血流循環の再配分が起こり、重要臓器(主に脳、副腎など)の血流は最後まで保たれ、右の心血管系、消化器系などの臓器は血流量が低下する。分娩中の低酸素症のみで脳障害を起こるくらいであれば他の臓器に多発性障害が起こるはずであり、特に腎障害が著明となり、尿量低下が見られる。
(二) 本件分娩の場合、前記認定事実、証拠(乙七の11、七の84)及び鑑定の結果によれば、次(1)ないし(4)の事実を認めることができる。
(1) 分娩時の臍動脈血中PH6.748と高度な酸血症がある。
(2) 生後五分後のアプガースコア四点である。
(3) 生後一日目の三月二〇日午前三時〜五時にかけて、けいれん様の四肢の動きが頻回に観察される。自転車漕ぎ運動様であり、小林看護婦より大崎医師へ連絡される。「けんれんではなさそう。」午前八時頃、はっきりした自転車漕ぎ運動がみられ、易刺激性でちく搦〜けいれん様の運動がみられた。これらは新生児期のけいれんに分類されており、異常な神経学的所見がみられたと推定される。
(4) 経過中、いくつかの臓器に多発した機能障害はみられない。
以上の四項目中、太郎に観察されたものは二項目である。以上の点より、太郎に脳障害が残った原因として分娩時の持続した低酸素状態が主たる原因となった可能性は少ないと言える。
(三) しかし、前記認定事実、証拠(乙七の2)及び鑑定の結果によれば、太郎においては、次の(1)ないし(3)の事実を認めることができ、右事実から本件分娩時に低酸素症があり、太郎に対して影響を与えた可能性は否定できない。
(1) 分娩時の臍動脈血は高度な酸血症を示した。
(2) 三月一九日に測定された新生児血中C(P)K―BBは91.3と上昇している。
このC(P)Kは、骨格筋、脳、心筋に多く存在する酵素であり、臓器細胞の壊死や破壊によって血中に逸脱する。このC(P)K―BBは、正常血清中には殆ど存在せず、脳及び平滑筋細胞に存在している。このC(P)K―BBの上昇は、脳及び筋肉疾患の診断と治療効果の判定に有用であり、脳神経系疾患や胃癌で増加する。
(3) 生後一日目の三月二〇日午前八時頃、太郎に観察された自転車漕ぎ運動は新生児期のけいれんの一つと考えられ、周産期の仮死によるけいれんの多くは生後四八〜七二時間以内に発症するとの報告がある。
3 以上によれば、本件分娩時に低酸素症があり、太郎に影響を与えた可能性は否定できないものの、分娩時の低酸素症が原因で太郎に重篤な脳障害が残ったとは断定できず、その相当因果関係は認めがたい。
四 結語
以上によれば、中堀医師あるいは被告に診療上の過失、あるいは診療契約に基づく注意義務違反があったとは認めることができず、また太郎の低酸素症と脳性麻痺との因果関係も認めがたく、その余の判断をするまでもなく、原告らの請求はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法六一条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官・濱本丈夫)